「生きる意味って何だろう・・・」そんなことを真面目に考えてしまうことは誰にだってありますよね。
コレだ!!という答えはないのではないでしょうか。
先人たちの言葉にヒントを得ようとプラトン著『ソクラテスの弁明』を再読してみました。
私自身は、生きる意味について、自分が使命のように感じた何かについて深く探求していくことなのではないかと思えました。
ここでは、『ソクラテスの弁明』を読んで、あくまでも私なりに感じたことを書いてみますね。
以下、出典はすべて『ソクラテスの弁明』 (光文社古典新訳文庫)です。
「吟味のない生は人間にとって生きるに値しない」
ソクラテスが自身の裁判で語ったとされる言葉です。
最終的にソクラテスは死刑になるのですが、判決の前に弁明の機会を得ます。裁判員に向かって以下のように語りかけます。
おそらく、こういう人がいるかもしれません。
「ソクラテスよ、君は追放になって、私たちのために、黙って平穏に生きていくことはできないのかね」と。
この点が、皆さんのうち一部の方々を説得するのに、なによりも一番難しい点なのです。(略)
「徳について、また私が対話しながら私自身と他の人々を吟味しているのを皆さんが聞いているような他の事柄について、毎日議論をすること、これはまさに人間にとって最大の善きことなのです。そして、吟味のない生は人間にとって生きるに値しないものです」と。
こう言ったとしても、あなた方は、私の言うことをさらに一層信じないでしょう。
ソクラテスの罪状は、神を信じず他者との議論を通じて哲学し続けたことでした。現代の感覚では理解できない罪ですが、当時は大罪でした。
ただ、必ずしも死刑になるわけではなく、裁判員の下す判決次第では他国へ追放となることもありました。
しかしソクラテスは、追放の刑を拒みます。哲学の活動を制限されたまま生きながらえる追放の刑よりも、哲学しつづけて迎える死(死刑)を選ぶのです。
「吟味のない生は人間にとって生きるに値しないものです」
と裁判員に語りかけるのです。
偉人といわれる人たちは、吟味に吟味を重ねる人生を送っていますよね。才能を持ち合わせているだけでなく、一生をかけて何かしら探求、追求しています。そういう生こそが、ソクラテスのいう生きるに値する生なのだと思います。
「徳に配慮するようにと説得してきたのです」
ちなみに、ソクラテスが吟味の対象としたもののひとつが「徳」です。「徳」を吟味するとともに、ほかの人にも「徳」に配慮して生きるように勧告しています。
それぞれの人に個人的に―――父や兄のように―――近づいては、徳に配慮するようにと説得してきたのです
『ソクラテスの弁明』では「徳」とは何かについて深くは語られていません*。
*解説においては「徳(アレテー)とは、その者の本領が発揮される優れたあり方である」とあります
ただ少なくとも「徳」とは、「金銭」「評判」「名誉」「肉体」ではないことが以下の言葉からわかります。
恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは
魂を最善にするよう配慮するより前に、それより激しく肉体や金銭に配慮することがないようにと説得すること以外、なにも行っていないからです
現代の自己実現の啓発本にもありそうな内容です。「金銭」「評判」「名誉」を目的としても心から満足する自己実現は達成できない。だからこれらを目的にすべきではない。本来的な自己実現に到達したとき「金銭」「評判」「名誉」は結果的についてくるものだ、というような話はよくあります。
二千年以上前のギリシャでも現代と同様の指南が行われていたわけです。現代と異なるのは、当時のギリシャでは、恥ずべきことだから「金銭」「評判」「名誉」「肉体」ばかり考慮すべきではないと語られています。
では何に配慮すべきなのでしょうか。ソクラテスは「魂を最善にする」ことに重きを置いています。
「魂を最善にする」と聞くと、さらに突っ込みたくなりますよね。じゃあ「魂」って何?「最善」って・・・?と。でも私自身は言葉のイメージを漠然ととらえればいいのではないかなと思いました。「魂を最善にする」というイメージ。
「魂を最善にする」ことに配慮しながら生きる、ソクラテスはそんな生き方を実践したのでしょう。そして、かの有名な「不知の自覚」という境地に至ったのです。
「私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っている」~不知の自覚~
私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で
「不知の自覚」を示唆する語りです。「無知の知」として憶えている方もいらっしゃるかと思います。私自身も「無知の知」として習った記憶があります。
「知らないことを、知らないと思っている」ことが「不知の自覚」です。「無知を知っている」という表現を用いているわけではないので「無知の知」と訳されるのは正確ではないようです。
ソクラテスは「ソクラテスより知恵ある者はだれもいない」という神託を受けます。ところが、彼は自分を知恵ある者と意識していません。
自分よりも知者と思われる人物を探しに行きます。神を論駁(ろんばく:議論して相手の説のあやまりを攻撃すること)しようとしたのです。
知者と思われる人物と議論したところ「この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思い込んでいるが、実際はそうではない」との思いに至ります。
「知らないことを、知らないと思っている」点で自分は知恵があるのだと考えます。「不知の自覚」です。
「死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです」
死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。人々はかえって、最大の悪だとよく知っているつもりで恐れているのです。実際、これが、 あの 恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている状態でなくて、何でしょう。
「不知の自覚」を徹底する態度は死に対しても現れます。
死について誰も知らない。だから死を恐れるのは恥ずべき無知だ、と。
実際にソクラテスは自身の裁判での弁明の機会に罰の軽減を請いません。そして死刑になってしまうのです。
「私は、今もなお歩き回ってはこのことを探究し」
神託は、このソクラテスについて語っているように見えても、実は私を例にして、私の名前をついでに使っているだけなのです。『人間たちよ、ソクラテスのように、知恵という点では真実にはなににも値しないと認識している者が、お前たちのうちでもっとも知恵ある者なのだ』と。 そうして私は、今もなお歩き回ってはこのことを探究し、神に従って、街の人であれ外国人であれ、知恵があると思う人がいたらと探し求めているのです
知恵ある者という神託を受けました。さらに不知の自覚=知者としての自覚もあります。それでもソクラテスは探求をやめません。不知を自覚をした自分が本当にもっとも知恵ある者なのか、答えを探し求め続けます。
神託に使命を感じ、その使命を追行すべく探求を続けることこそソクラテスの生きる意味だったのだと思います。
ソクラテスのように神託をもらえると迷いがなくていいですよね。
さいごに、「そうして残りの人生を、ずっとねむり続けることになるのです。もしも神があなた方を心配して、だれか他の者を送りこまないかぎりは」
おそらくあなた方は怒り、ちょうどうたた寝をしていた者が起こされた時のように、私をたたき落とし、アニュトスの言うことを聞いて、簡単に殺してしまうことでしょう。そうして残りの人生を、ずっとねむり続けることになるのです。もしも神があなた方を心配して、だれか他の者を送りこまないかぎりは
ソクラテスは自分をアブにたとえます。アブのようにうるさい奴。うたた寝をしている人々のまわりをブンブンと飛ぶアブ。
うたた寝をしている私はそんなうるさいアブを殺さないでおけるでしょうか。ともすると眠ったまま気づかないかもしれません。でも『ソクラテスの弁明』を読んだのですから、そろそろ起きるときなのでしょうね。
別冊NHK100分de名著 読書の学校 西研 特別授業『ソクラテスの弁明』 (別冊NHK100分de名著読書の学校)
↑まずこちらを読むと良いと思います。「第1講 哲学って何?」から始まります。
↑読みやすいです。難しい言葉に引っかかることもなく、すんなりと読めます。また解説が充実しています。おすすめです。
↑『ソクラテスの弁明』の続編である『クリトン』との二本立てとなっています。翻訳に古さがあります。文字が小さく少し読みにくいです。